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「おてんば娘だった、幼年・少女期」
柏原市国分に生まれました。父親は、運転手をしながら、畑仕事をして、いつ寝るのかと心配なほどよく働く人で、母親も畑仕事と内職をしながら、4人の子ども(兄、姉、私、妹)を育ててくれました。私は、小さい頃から、畑仕事や、米作りを手伝うなかで、丈夫な身体と根気強さを育みました。
「中学、高校とバスケット人生を突き進みました。」
八尾高校時代にインターハイにも出場できたのが縁で、商社の丸紅飯田(現在の丸紅)に入社し、オーストラリアから、羊の毛を輸入している部の営業経理課に配属になり、仕事を終わってからの、週3回、夜の練習を中心に、実業団のバスケットで4年間、現役でがんばりました。
「バスケットだけが、青春だった私が、」
残業で、バスケットの練習ができない日がつづき、職業病の「けいわん症候群」を発病しました。男性並に『140』あった背筋力も、『80』に低下し、病休、休職。人事課長が、母親を呼んで退職勧奨したけれど、共産党や職場・地域の仲間の支援で、通院時間を補償してもらい、職場復帰をすることができました。この、労働者が力を合わせればいろんなことが実現できるという経験が「女の子」を一人前の女性労働者に変えていました。
職場復帰実現に向け、励ましてくれた先輩から日本共産党への入党を誘ってもらい、「働く者が、主人公になれる世の中をつくって行きたい。」と迷わずに、21歳で入党しました。1970年に結婚。1971年、長女を出産して産休明けて出社すると、私の机はなくなっていました。それから1年9ヶ月間、私の机は、ついたての向こうの奥、人事部の書類の山の隣。電話もなく、2000人の労働者が働いているなかで、来る日も来る日も仕事がありませんでした。
夫や、仲間の励ましと、丸紅に「買い占めやめよ!」と抗議に来た地域労働者が、私のことも取り上げてくれて、そのあと、すぐに新しい職場に配属が決まりました。
『大企業のなかには、憲法が通じない』と言われた職場で、職業病・結婚・出産に際しての退職干渉をはねのけて、はたらき続けた24年間でした。私が、入社した昭和40年頃は、「女性は、3年で辞められたら困るけど、4年以上いてもらっても困る」「結婚しても働き続けるなんて、ダメ!、まして、子供を産んでも働き続けるなんてもってのほかだ」という、「常識」が、まかり通っていました。結婚祝い金、出産祝い金は、男子社員だけ支給。「そんな、理不尽なこと、許してたらあかん!」と、くつぬぎタケ子参議院議員が、国会でとりあげてくれ、1週間後には「社内就業規則改定」、女性にも、結婚・出産祝い金支給。社誌の「結婚おめでとう」「出産おめでとう」のコーナーに女性の名前も掲載されるようになりました。30年前の民間企業の、どこにでもある、はなしでした。
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