history


幼年時代

 私の生まれた家は親父が小さな鉄工所を自宅裏で経営していました。妹二人と私との三人兄弟の長男です。両親は、家業の鉄工所を継いでほしかったようで、特に父は、私が家業を継ぐ気がないことを告白したときは、かなりショックだったようです。
 小さいころから、人見知りをする「ひ弱な」子供でした。中学時代は、軟式テニス、高校に入ってサッカーと、スポーツクラブで体も鍛えられてきて、だんだんとタフになってきました。成長期にスポーツをやっていたことが、今日では持久力で助かっているなと思います。

 

絵描きを志したころ

20歳のころに描いた
「青年」のデッサン

 高校の時には、美術部にも入りました。そして将来は、絵描きになりたいと決意し、大学進学も芸大の「西洋画科」「油絵画科」などを受験するが、みごとに失敗。
 あのころは、失望と自己嫌悪のかたまりのような人間でした。しかし、今でもよくあんな生きかたをしていたものだと思うほど、食べるものも食べず、体裁も考えないで、時間を惜しんで絵を描くことが生きがいでした。友達と芸術のことを夜通し語り合い、必死にいろんなことを勉強していた青春時代でした。


 

「私みたいな人間でも人の役に立ちたい」と政治家に

公共下水道「国分本町幹線」の中で

 私は、小学生のときから「太平洋戦争」のことや「原爆」などの悲惨な話は知っていましたが、恥ずかしながら戦争は過去のことだと思っていました。しかし、高校時代はベトナム戦争真っ只中でした。「戦争はだめだ」という素朴な「平和主義」が私の政治に対する出発点でした。
 それから、社会のこと、政治のことなども知り、また実生活のなかでいろんなことを体験していくなかで、22歳で日本共産党に入党しました。
 「豊嶋虎雄議員のあとを受けて党の市会議員に」と勧めがあったときには、「私みたいな人間でも人の役に立ちたい」と決意しました。社会のなかの歯車の一つのネジ釘でいい、『私心なく、誠実に』というのが私の原点です。